本校創立100周年にあたり、先月の理事長だよりでは「豊中グラウンド」を取り上げ100年ほど前の出来事を振り返りました。そのとき元新聞記者である坂 夏樹さんの著書を参考資料として読みました。5年ほど前だったか私が読んで印象深かった新聞記事に関連して、坂 夏樹さんが「命の救援電車 大阪大空襲の奇跡」という本を書いていることを知り、「あっ!」と思い早速読んでみました。ひとつのことに興味を持って調べていると、偶然にもいろんなものがつながり広がっていくことがあります。
私の心に残っていた記事、それは第二次世界大戦末期の大阪大空襲で猛火に包まれる中、地下鉄が走り多くの人々の命が救われたという話です。
大阪大空襲があったのは77年前の1945年3月13日深夜から14日の未明。中心街である心斎橋や難波のあたりはアメリカ軍による無差別空爆を受けました。一夜にして街は焼け野原となり、大阪府警察局の調査によると亡くなったり行方不明になった方々は少なくても4600人以上、負傷した人々は8500人以上とされていますが、実際はもっと多いと言われています。
空襲の中、心斎橋駅などでは本来は閉まっているはずの地下鉄入り口のシャッターが開けられ、逃げ惑う大勢の人々がホームに駆け込みました。やがて電車がホームに入ってきて、人々は乗車し、まだ被害がでていなかった梅田や天王寺まで避難できたというのです。
この話は長らく知る人ぞ知る、うずもれた出来事になっていました。当時、空襲になっても地下鉄は避難禁止とされていました。理由は火災で生じた煙や炎が地下鉄構内に入り込んだり、水道管が破損して水が流れ込むなどの危険性があるからというものでした。東京にも地下鉄があり、同年1月の東京銀座空襲では、駅周辺が爆撃され水道管が破損して大量の水が流れ込む被害がありました。そのようなこともあり地下鉄は危険とされ、2か月後の3月10日東京大空襲では地下鉄の扉が開かれることはなかったのです。
また、終戦後大阪市交通局は公文書や書類のほとんどを焼却。そのころの記録が抜けているのです。戦後、公に語られることはなく、地下鉄構内避難禁止だった事実や、記録がないことから、話題にのぼることがあっても「大空襲の最中、地下鉄が走っていたなんて本当だろうか」「空襲伝説」ではないかという人さえいたと坂さんは本に記しています。
しかし、1997年3月に朝日新聞に「心斎橋の駅に逃げ込み、地下鉄に乗って梅田まで避難できた」と元京都大学教授の投稿が掲載され事態が動きました。この記事を見た大阪交通労働組合・公営交通研究所の安藤孝所長と、毎日新聞の松本泉記者が調査を開始。同年7月に松本記者は新聞で読者に情報提供を呼びかけます。すると「私も乗った」「私も救援電車のおかげで命拾いをした」という投書が読者から続々と寄せられてくるではありませんか。確かな人数は分かりませんが、数々の証言から大勢の市民が地下鉄に乗って梅田や天王寺へと逃れたことは事実だったと分かってきたのです。
「シャッターの前にいた特警の人に、『娘だけでも中に入れてやってください』と必死に頼み込むと『こどもだけ助かっていいのか、あなたも入りなさい』と言われ地下に入るとそこは別世界だった。電灯があかあかとついていた。トイレにも電気がついているのが不思議だった。すると駅員が『早くこれに乗ってください』とホームに入ってきた電車に乗るように指示した」と言うものや、大国町の駅では「規則だから開けられない」と最初は言っていた駅員が市民の悲痛な叫びにシャッターを開け多くの人が助かったなど、新聞に集まった証言が坂さんの本には綴られています。
いろいろな情報を総合すると、空襲の間に市民を運んだのは回送や消火活動の防空要員、仕事場に向かう地下鉄職員を乗せるはずの電車だったと推測されています。また被害を免れた地下鉄は空襲が終わった14日朝の始発から運行していたそうです。
一方、助かった人の証言が数多くあるにも関わらず、電車を運転した人、避難が禁じられていた地下鉄を開放、誘導をした人など関係者による確固たる証言を得ることはできませんでした。決して数人の行為でできることではなく、多くの人が関わっていたはずなのです。しかし人命救助とはいえ規則を破ったことになり、職務違反になる恐れから公にはされなかったのだろうと言われています。ただ、規則に縛られずその場の判断で市民の命を救った人々がいたことは確かなことです。
そのような中、当夜心斎橋駅で勤務していたとみられる男性の証言が得られました。「心斎橋駅では20人ほどの職員が働いていました。助役、監督以外は女子が多く、国民学校の高等科を卒業したばかりの子供たちでした※」「いつの空襲のことだったか記憶があいまいだが、シャッターを開けてホームに案内したことを覚えています」と語ったそうです。
令和の今、地下鉄が通る御堂筋、心斎橋、なんばあたりは海外からも観光客が集まるにぎやかな街になっています。欧米の高級ブランドショップが並び、戦争の影は全くありません。地下鉄は毎日多くの乗客が乗り降りしています。でも77年前、今、ウクライナで起きていることが日本中でも起きていました。私たちが当たり前のように乗る大阪市営地下鉄御堂筋線での出来事、今度乗るとき、この話を思い出して当時の空気感に思いを馳せてみようと思っています。そして、再び地下へ逃げ込む世の中が来ないように祈るばかりです。
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【大阪市営地下鉄】1933年(昭和8年)に梅田と心斎橋を結ぶ地下鉄が開通。その後38年には天王寺まで延伸されました。当時では珍しい、エスカレーターや水洗トイレがあったそうです。アメリカ軍の大空襲でも耐えた約90年前の技術力もすごいですね。2018年3月31日まで大阪市交通局が運営し、翌4月1日より大阪市高速電気軌道株式会社=Osaka Metroとしてリスタートしました。
※戦時下では人員を戦地に送ったため、10代の若者たちが人手不足を補いました。
【参考・引用】「命の救援電車 大阪大空襲の奇跡」(坂 夏樹著:さくら舎)