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理事長だより

vol.65「8月15日、終戦の日に寄せて」

「戦争で開発した兵器の技術を、平和な時代に役立てたい――」

 そんな強い思いを胸にした、一人の旧日本海軍の技術者がいました。彼の願いは、やがて東海道新幹線の開発へと実を結び、世界初の超特急という輝かしい遺産を人類に残しました。今年、その新幹線は開通60周年を迎えています。

 第二次世界大戦のさなか、日本の先端技術を総動員し、日本軍は兵器の開発に全力を注いでいましたが、戦争末期になると資源は尽き果て、国土はアメリカ軍の空襲により甚大な被害を受けるようになっていました。極限状況に追い詰められた中、日本軍は帰還を前提としない特攻作戦を実行し、多くの若者がその過酷な命令のもとに生命を散らしました。

 そのために開発された兵器が、「桜花」というエンジンも燃料もないグライダーでした。この兵器は、爆弾を積んだまま高速で体当たりすることを目的に、空気の抵抗を極限まで減らし、軽量化のため無駄をそぎ落として設計されました。敵艦に接近すると母機から切り離され、操縦士がそのまま命を賭して体当たりを行うというもので、車輪すら持たないその機体は、まさに「人間爆弾」として、操縦士に帰還の可能性を与えないものでした。

「桜花」を設計したのは、三木忠直技術少尉でした。飛行機を作る夢を抱いて海軍省に入省した彼は、戦争が激化する中、「生きて帰れない兵器を作れ」という上層部の命令に、心を引き裂かれる思いを抱いたといいます。「命を犠牲にする飛行機を作るなんて、技術に対する冒涜だ」と苦しみつつも、戦時中の厳しい状況下で逆らうことは許されませんでした。

 昭和20年(1945)3月21日、神雷部隊と名付けられた部隊は、「桜花」でアメリカ艦隊に向けた攻撃を開始しました。何としても国土への直接攻撃を止めたかったのです。しかし、圧倒的な力のアメリカ軍の前に、母機もろとも「桜花」は次々に撃ち落とされ、神雷部隊の829名が命を散らしました。

 戦後、三木は自ら設計した非人道的な兵器に深い罪悪感を持ち、苦しみ続けました。手記には「記憶が痛む」「この機体を使用することは愚行だ」と記され、心に刻まれた後悔の念が滲んでいます。しかし、やがてこう思うようになりました――「技術は人を傷つけるためではなく、平和を築くために使うべきだ」と。そして、「鉄道こそが平和の象徴だ」と信じ、彼は国鉄(現JR)で新幹線の開発に情熱を注ぐ決意をしたのです。

 時速200キロで走る新幹線の開発には、流線形のデザインと軽量化が不可欠でした。まるで飛行機のような初代新幹線の形状には、かつての「桜花」の技術が息づいていました。戦争中に兵器として開発された技術が、平和な時代に世界初の超特急として生まれ変わったのです。

 三木の次女、棚沢直子さんはこう語ります。「父はどんなに優れた鉄道を開発しても、海軍で人を殺したという罪の意識から逃れることができなかったのではないでしょうか。戦争なんかもう嫌だ、絶対にしてはいけない、と何度も口にしていました」と。戦争がもたらした深い傷跡と、それでもなお平和を願う強い思いがそこにはありました。

  60年前、新幹線が誕生した時、私は子どもながらにそのニュースに胸を躍らせました。その希望の象徴には、実は計り知れない悲しみと葛藤が潜んでいたのです。

 焦土と化した戦後の日本を復興させた多くの人々の中には、三木のように「生き残った者の使命」として尽力した方たちがいました。市井の人たちのその努力のお陰で今の日本があるのだと、心から感謝せずにはおれません。

【参考文献】
特攻機「人間爆弾」の設計者が初代新幹線に込めた願い|大分の戦跡薄れる戦争の記憶
「原爆の父」被爆者に涙して謝罪 通訳の証言映像発見、広島(共同通信)ニュース
「カミカゼの幽霊人間獏案をつくった父」:神立尚紀著:小学館刊

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