「まさかこんなことになるとは」。この理事長だより1月号で「東京オリンピック・パラリンピックでどんなドラマが生まれるのか。今から楽しみでなりません」と書きました。本来であれば大会の名勝負、名場面の感動を書いていたであろうに、いやはや予測不能な事態になりました。そのため、その感動は次回の開催まで待つとして、いまでも語り継がれるオリンピックの物語を紹介することにしましょう。
今から84年前、1936年のオリンピックはドイツ・ベルリンで開催されました。当時のドイツは、党首アドルフ・ヒトラーのナチス党が支配していました。ヒトラーは金髪で青い瞳をしたアーリア人種と言われる純粋なドイツ人が最も優れた民族であると主張。ユダヤ人や有色人種などをターゲットに、迫害を行っていました。しかし、そのような行為は他国から非難を浴びていたため、ヒトラーはドイツ人選手が活躍することで、自国のすばらしさと、アーリア人の優秀さを知らしめるプロパガンダ(宣伝)にオリンピックを利用することにしました。
しかしこの野望に一石を投じたのが22歳の黒人選手、陸上競技アメリカ代表のジェシー・オーエンスでした。オーエンスは陸上100メートル走で自身初のオリンピック金メダルを獲得、続いて走り幅跳びにも出場します。しかし難なく予選を通過すると思われていたにも関わらず、2度もファウルというミスを犯してしまいました。あと一回失敗するともう後がない、焦るオーエンスに「1フィート手前に線を引き、そこからジャンプする、そうすればファウルするはずがない」と助言する人物が現れます。その人はルッツ・ロング。金髪に青い瞳で長身、ヒトラーが“最も優れている”というアーリア人を絵に描いたようなドイツ代表の選手でした。お蔭でオーエンスは予選を通過します。そして決勝ではオーエンスとロングの一騎打ちとなりました。接戦が続きますが、最後にロングが踏切を越してしまい、オーエンスが金メダルを手にするという結果になりました。
その時、最初に祝福したのは敗れたロングでした。「ヒトラーのためのオリンピック」とまで言われた大会で、しかも大観衆の前で黒人選手のオーエンスを力一杯抱きしめて称えました。
オーエンスはこの時のことを、「ヒトラーの目の前でロングが私と友達になることは、とても勇気がいることだったに違いない。私が持つメダルやカップの全てを溶かしても、そのときに私がルッツ・ロングに感じた二人の純金のような友情を覆い隠すことはできないだろう。ヒトラーは私たちが抱き合うのを見て、怒り狂ったに違いない」と語っています。
スポーツの戦いで、アスリートが敬意をはらいライバルを称えることはよくありますが、ナチス・ヒトラー政権下、ドイツにおいてこの行為は本当に勇気がいることだったと想像されます。ロングはスポーツマンシップに溢れた人物だったのでしょう。オーエンスの凄さが分かるがゆえに、彼と戦いたかったのではないでしょうか。真のライバルとの出逢いが嬉しかった。その思いは独裁者でも止めることはできなかった。オーエンスはこのオリンピックで他2種目でも優勝し、計4つの金メダルを手にしました。
オリンピックの後も二人の友情は続きます。しかし、第二次世界大戦になり、ロングからの手紙は1939年を最後に届かなくなります。戦争が終わるとオーエンスは、ロングが戦地で負傷し1943年30歳の若さでこの世を去っていたことを知るのでした。定かではありませんが、ヒトラーの逆鱗にふれ、最前線に送られたという説もあります。
一方、金メダルを4つもとった英雄にもかかわらずオーエンスの栄光は長くは続きませんでした。アメリカでは今でも、黒人に白人警官が暴行を加え死なせてしまったことが問題になっていますが、当時は人種差別がもっとひどい状況でした。オーエンスは70年代になって「大統領自由勲章」を授与されるなど再評価されるまで人種という壁に阻まれたそうです。
オリンピック・パラリンピックは、鍛え抜かれたアスリートたちが、4年に一度祖国の威信をかけ世界一を決める大会です。しかし、根底にある人種を超えた「平和の祭典」と言う人類のコンセンサスに最大の価値があると私は信じています。2020東京大会は、新型コロナウィルスという目に見えない敵に阻まれましたが、世界中から祝福される状態で開催できる日がくる事を願っています。
最後に、死後ルッツ・ロングには「オリンピック選手に与えられる栄誉の中で最も崇高なもののひとつ」と称される「ピエール・ド・クーベルタン・メダル」が贈られ、ジェシー・オーエンスにも死後1990年にアメリカのブッシュ大統領から文民に与えられる最高の賞である「議会名誉黄金勲章」が授与されています。また、2009年にベルリンで開催された世界陸上で、ロングの息子とオーエンスの孫が男子走り幅跳びの表彰式でプレゼンターを務めたこともお伝えしておきましょう。