昭和20 (1945) 年8月6日、アメリカ軍によって広島市に原子爆弾が投下され、半年後までに推定14万人の人々が命を奪われました。核兵器によって街は崩壊、この世のこととは思えない筆舌に尽くし難い惨状となりました。
しかし想像を絶する状況にあっても、自身や家族が原爆放射線に被爆をしていながら、自分ができる最善を尽くした市井の人たちが多くいました。負傷者を救助した人々をはじめ、お金が心配だろうと日本銀行広島支店は2日後の8日に業務を再開しました。
市民の足であるチンチン電車(路面電車)を運営する広島電鉄の職員も一丸となって、驚異的な精神力で復旧をめざしました。わずか3日後の9日、1キロ少しですが電車を運行させたのです。「電車が走っている―」。絶望の中にいる人々を大いに勇気づけたといいます。そしてその一番電車に乗務していたのが、何と十代半ばの女子生徒だったのです。
「なぜ女子生徒が?」。このことは2000年のはじめごろ広島テレビの報道記者だった堀川惠子さんが取り上げるまで、地元の人々にも忘れられ埋もれた歴史でした。堀川さんは資料のない中、元女子生徒に取材を重ね、ドキュメンタリー番組や「チンチン電車と女学生」という本にまとめています。
著作によると、第二次世界大戦の末期、広島電鉄は兵隊に召集されて極少になってしまった男性の人員不足を補うために、女学校の女子生徒を代役にしようと考えました。そして昭和18年4月、学びながら電車乗務を仕事とする全寮制の広島電鉄家政女学校を開校したのです。同校には家庭の事情で進学したくてもできない、14歳で入学する向学心に富む少女たち多くが集まったそうです。
戦局が悪化する終戦前の2年と数か月、少女たちはチンチン電車の運転手や車掌として働き、生徒として授業を受けました。厳しい日課、物不足、寮生活でのホームシックなど辛いこともたくさんありましたが、学べることの喜びに加え、給料を仕送りした残りわずかなお金で映画鑑賞その他時代なりの青春を過ごしたといいます。何よりも広島市民に支持され、戦地へ行った男性の代わりとして、お国の役に立てることが誇りだったと元女子生徒の方々は語っています。
原爆投下から9日後の8月15日、日本は戦争に敗れました。しばらくして学校も解散、九死に一生を得て生き残れた女子生徒たちはそれぞれ実家へ戻っていきました。74年後、令和元年の今、みなさんに知って貰いたい裏面史です。