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理事長だより

Vol.43「ちょっと調べるは、ちょっとした愉しみ Ⅲ」

履正社創立100周年ということで、100年前の大阪を調べるシリーズの第三弾。今回は超大物学者の来阪について、「ちょっと」調べてみました。

その人はアルベルト・アインシュタイン。相対性理論やブラウン運動理論などを唱え、光電効果の理論的解明によってノーベル物理学賞を受賞しています。

20世紀最高の物理学者と称されるアインシュタインが、本校創立年である1922年の11月17日から43日間、日本に滞在し東京をはじめ北は仙台、西は福岡と日本各地の大学を中心に講演を行ないました。日本に向かう途中でアインシュタインのノーベル賞受賞が発表されたタイムリーさも相まって「ノーベル賞を受賞したばかりの偉い学者が日本にやって来る!」と行く先々で大勢の人々が集まりました。それは物理学に関係のない一般の人々も加わり、まるでハリウッドスターの来日のように日本中が多いにわいたそうです。

さて、アインシュタインが大阪に来たのは12月11日。大阪駅には千名以上の人々が出迎えました。講演は中之島の中央公会堂で行なわれ、約2千人の聴衆が聞き入ります。100年前のアインシュタイン来日について、先日産経新聞が掲載をしていました。それによると、「それまでの講演とは変わり、大阪ではむしろ通俗的な言い表し方を多く用いられた」「特殊相対性理論の説明では、鳥が飛ぶ速さと光速との比較や、列車からの電灯の見え方など身近なものを例に挙げて解説したという」と当日の様子が紹介されています。

またアインシュタインは旅行日記をつけていました。大阪滞在の12月11日には「大阪(大きな工業と商業の町)に行く。駅で市長と学生に出迎えられた。すべての人々が我々に思いやりがあり、控えめなので、まったく疲れなかった」と記しています。

講演した中之島公会堂は、大阪市北区にあり、優れた建物として現在も活用されています。滞在した今はなき大阪ホテルも北区にありました。本校創設当初の大阪府福島商業学校も同じ北区にあり、「近くにアインシュタインが来てるで!」とひょっとしたら本校1期生が一目見ようという群衆の中にいたかもしれないと妄想が膨らみます。

アインシュタインの来日はいろんな形で波及していきます。京都帝国大学(現:京都大学)への来校に際し、生徒代表としてあいさつした荒木俊馬は、後に京都産業大学を創設。アインシュタインの日記には「申し分のないドイツ語であいさつ(とても心がこもっていた)」とつづられています。その後、荒木俊馬はヨーロッパに留学しアインシュタインと再会。日本に帰国後、宇宙物理学の第一人者となり湯川秀樹たち次世代の研究者を育成していきます。

ところでなぜ著名な科学者が大正時代の日本に来たのか。しかもフランスのマルセイユ港から船で1か月以上もかけて。

来日は日本の改造社という出版社の招聘によりますが、アインシュタインは「日本に行くように交渉を受けたとき、何はさておいても行かねばならぬと思ったのは、日本の美しい自然を見るためばかりではありません。相対性理論とはどんなにやさしい簡素なものかということを日本の皆さんにお伝えして、私が日本を去るときは『なんだ、あんな易しいものか』と言われるようになることを深く希望しています。」と講演で語ったそうです。

日本での講演の間、名所や古典芸能を鑑賞するなど日本文化に数多く触れ、すき焼き、天ぷら、すしなど日本食を何でも好んで食べたそうです。さらに農家の家を訪れ、五右衛門風呂やおしめをほした縁側、台所などごく一般の日本人の暮らしも見て楽しんだとか。いよいよ日本を離れるとき、税関桟橋へ向かう途中で正月用の餅つきをする人々を発見。アインシュタインはさっそくその輪に入ってみずから赤いハチマキを巻いてお餅をついたというエピソードも残されています。

息子に宛てた手紙には「日本人のことをお父さんは、今まで知り合ったどの民族よりも気に入っています。物静かで、謙虚で、知的で、芸術的センスがあって、外見にとらわれず、責任感があるのです。」と書いていました。日本人としてうれしい話ですね。

しかし、その後アインシュタインを取り巻く環境に暗雲が広がります。故郷であるドイツの政権をナチスが握るとユダヤ人を排斥する動きが起きました。そのためユダヤ人であるアインシュタインはアメリカへ渡り、ドイツに戻ることはありませんでした。

ナチスドイツが原子爆弾の研究に着手していると聞いたアインシュタインは、その蛮行を止めるためにナチスより先に原子爆弾の開発が必要と記したルーズベルトアメリカ大統領宛ての書簡に他の科学者と署名しました。

自身は原子爆弾研究のマンハッタン計画に参加しておらず、直接関与したのではありません。あくまでもナチスを倒すため、原子爆弾を使うのではなく抑止力として考えていたのです。しかし、原子爆弾は投下されました。しかも自分が好意を抱いている日本の広島と長崎に。アインシュタインは自責の念にかられます。やがて原子力の平和利用、核兵器廃絶の声をあげていきました。1955年には哲学者のラッセルとともに核廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表します。

そして、日本人初のノーベル・物理学賞を受賞した湯川秀樹とアメリカで会ったとき、アインシュタインは日本の原爆投下を湯川秀樹に謝罪したと言われています。湯川秀樹も「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名しています。

アインシュタインと日本。ヒットラーという独裁者や戦争がなければ、その後の展開は異なったに違いありません。アインシュタインは原子爆弾開発に間接的に関与することが無かったでしょう。学者として自責の念にかられることは無かった。そしてもう一度来日し、大阪にも来たかも知れない。ふとそんなことを思った次第です。

(参考文献)

杉元 賢治編訳 「アインシュタイン 日本で相対論を語る」(講談社発行)

ゼエブ ローゼンクランツ著 「アインシュタインの旅日記 日本・パレスチナ・スペイン」(草思社発行)

産経新聞令和4年7月2日朝刊掲載

THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜 BS-TBS

【開催終了】ノーベル賞受賞100年記念「アインシュタイン展」  特別展・企画展  福岡市科学館

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