「自分で考え、信念をもって行動する」。このような生き方ができるなら人生において開く扉は数多くあるでしょう。今回はそんな生き方を貫いた白洲次郎という人物について記すことにしましょう。白洲は政治家・実業家で、第二次世界大戦後、吉田茂首相に請われGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との交渉に毅然と立ち向かい、日本の復興に全力を注ぎました。
身長180センチと、日本人としては背が高くファッションセンスも洗練されていました。ジーンズを初めてはいた日本人とも言われています。誰の人生も恐らくそうでしょうが、白洲次郎の一生も、まさに長編大作のドラマのようなものでした。
白洲は明治35年、兵庫県精道村(現:芦屋市)に生まれました。父親が綿の商いで、莫大な財を成した家で育ち、神戸一中(現:神戸高校)に進学するも、かなりのやんちゃで、学校では粗野で癇癪持ちの問題児でした。普通では考えられませんが父親に買ってもらった外車を乗りまわしていたとか。
本人は「島流し」と言っていますが、イギリスのケンブリッジ大学クレアカレッジに留学し、このイギリスで過ごした9年間が白洲を大きく変えました。ハイレベルの教育と、生涯の盟友となる英国貴族人との出会いなど、知識と教養、紳士の思想を吸収しました。
白洲が生涯貫いた「プリンシプルを持った生き方」はこの時に培われたそうです。「プリンシプル」とは日本語で「原則」という意味です。「原則」を改めて調べると「一般的に適応される根本的な法則」「守らなければならないこと」とあります。これを貫く生き方は「原則に忠実である」こと、それは「自分で考え、信念をもって物事に向き合う」ことで、勇気が必要な時もあります。
白洲はイギリスでは学者になろうとしていましたが、実家の会社が倒産し日本に帰らざるをえなくなりました。帰国後は新聞記者や、「日本食料工業」(現「日本水産」)の取締役の職についていました。しかし昭和15年頃、日本が戦争しても必ず負ける、そして食糧難になると予見して、農業に専念します。
終戦を迎えると、以前から親交が深かった吉田茂首相(当時)に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任しました。同局は日本政府とGHQとの折衝を担う役所でした。白洲は重要な交渉役として、多くの政策調整や実行に携わります。彼の英語力と「戦争に負けたが奴隷になったわけではない」との毅然とした態度は、日本の戦後復興に非常に大きな役割を果たしました。その姿はGHQが本国に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたほどでした。
また、こんな逸話もあります。昭和天皇がGHQの最高司令官マッカーサー元帥に贈ったクリスマスプレゼントを白洲が届けた折、マッカーサーが「そのあたりに置くように」と床を指したことに対し、「いやしくもかつての統治者からの贈り物を床に置けとはなんたる無礼」と激怒。あわてたマッカーサーは贈り物を置くための机を用意させたというのです。この話は真偽のほどは定かでないとも言われていますが、どんな相手でも毅然と「プリンシプル」を貫く白洲らしい話として有名です。
そして、昭和26年に行われたサンフランシスコ講和条約をもって日本はGHQの占領から独立国に復帰しました。この講和会議に臨むにあたり吉田茂は白洲を講和会議首席全権顧問に任命し、演説の2日前に原稿に目を通すように言いました。しかし英語で書かれた草案を見た白洲は「なぜ祖国の言葉で語らないのか!」と書き換えるように意見し、GHQに対して美辞麗句を並べた内容に異を唱え、当初の草案に一言も触れられていなかった沖縄返還を盛り込ませたそうです。そして吉田茂は日本語で演説、日本史で学ぶ講和条約が結ばれました。どんな場でもどんな相手でもプリンシプル、原則を通すというのが白洲の流儀でした。
講和の後、白洲は東北電力などの企業で役員として活躍し、請われたものの公職につくことはありませんでした。
役員を務めた企業では、現場で働く人たちと腹を割って話し合い、耳を傾けました。従業員の家族のためにとキャンデーやチョコレートを配るなど気配りのできる人だったそうです。
どんな相手でもその人の考え方を理解した上で自分の考えを持たなければ、プリンシプルを貫くことはできない。敗戦国となった日本の復活の陰に、アメリカと対等に渡り合った白洲次郎という人物がいたことを知っておいてほしいと思います。
白洲次郎が信念をもってアメリカと対等に向き合えたのは、イギリスでの学びがあったことは言うまでもありません。それは英語が流暢に話せるということではなく、欧米人の考え方を熟知していたからです。「西洋人と付き合うには、すべての行動にプリンシプルがはっきりしていることは必然である」と白洲は語っています。
令和の今、世界はどんどん近くなっています。一方で生成AIの進化のお陰で簡単に外国語が翻訳できる時代です。外国語ができなくてもAIがあれば海外の人と意思疎通することはできます。しかし、真に求められるのは自分の考えを自信を持って伝え、行動できる力であり、その根本は信念をもって生きることです。
本校の校訓の第一綱領である「履正不畏」は、白洲が貫いたプリンシプルの考え方と通ずるところがあります。常に、原理・原則に従うという信念です。
最後に「今の日本の若い人に、一番足りないのは”そういうことを言ったら損をする”ってことばかり考えている」という白洲次郎のことばを紹介して締めくくることにしましょう。
【参考資料】
「白洲次郎100の箴言」海藤 哲編集 発行:笹倉出版社
「白洲次郎の流儀」白洲次郎・正子ほか著 発行:新潮社
「プリンシプルのない日本人」白洲次郎著 発行:新潮社
「風の男」青柳恵介著 発行:新潮社
白洲次郎 – NPO法人 国際留学生協会/向学新聞 (ifsa.jp)
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑧白洲次郎後編 | 神戸っ子 (hpg.co.jp)
白洲次郎 | 旧白洲邸 武相荘 Buaiso