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安東 由仁 Yuni Ando
元鍼灸学科教員・アスレティックトレーナー
人と人との真ん中で。
トレーナーであり、鍼灸師であり、教員でもあった安東さんが
京都の町家で小さな鍼灸院をはじめたのは約2年前のこと。
訪れるひとびとの心と身体を健やかにしていく日々の中で、
「学生に伝えたい色んなこと」があらためて見えてきました。
2017年4月3日
京都市左京区にある「ゆに鍼灸院」は木造二階建ての京町家で、法然院や「哲学の道」が近くにある場所柄、外国人観光客たちが建物の外をよく往来している。時おり、人力車が目の前を通ることもある。
鍼灸院の出窓の外には背の高い鉢植えの植物がならび、玄関の黒い格子戸のそばに黒板が立てかけられている。その黒板には毎日、家主が手書きの「ひとりごと」をチョークで記すことになっていて、たとえば2016年11月7日月曜日の「ひとりごと」はこんな具合だ。
〈「真田丸」を楽しみにしています。きのうはいつもと始まり方が違って(初めにいつも流れる音楽が最後に流れた)、それだけでぐっと緊張感が高まって面白く感じました。10か月間の「いつもどおり」があってのこの面白さ。派手な遊びよりも「いつもどおり」をこつこつ毎日続けることが、たまの特別な日を楽しむために大切なことかもしれません。〉
家主である安東由仁さんは、2015年の春、この地に「ゆに鍼灸院」を開業した。はり、きゅうによる治療に加えて、カラダのこと、食生活のこと……東洋医学の考えにもとづき、日常の様々な養生の仕方を患者さんにていねいに伝えている。週末には運動指導も交えたワークショップや“寺子屋”も開いていて、遠いところでは兵庫県の芦屋市、時には四国から来訪者がある時もある。
「京都に旅行するついでに寄ってくださるみたいです。鍼灸院って、自宅の近所にあるから入ってみようって感じではあんまりないようですね。ツイッターやブログを読んで、『ここは自分に合うかも』と思って来てくださる方が今はほとんどです。少しずつ、ご近所の方も増えてきてありがたいことです」
和の装いで私たちを迎え入れた安東さんが、温かいほうじ茶を淹れながら解説してくれる。
玄関の手前は広い土間になっており、壁際には暖炉型のペレットストーブがあって、炎の底で木材燃料が時おりパチっと音を立てている。私たちは土間にある大きな、丸い木のテーブルを囲んで話をすることにした。テーブルの向こうには木製の本棚が並んでいて、ライフスタイルや旅関連の雑誌、書籍、子ども用の絵本、漫画本などがぎっしり詰まっている。
「ここ、落ち着いてしまって帰れなくなりそうですね」
安東さんにそう言うと、「みんな帰らないんです」と笑ってこう続けた。
「私自身も、ここ2年くらいはすごくのんびりしている気がして。大学時代から数えて20年間、ほぼ休みなしの全力疾走でスポーツ現場で働いてきたでしょう。だから今は自分のパワーを、半分くらいしか出力していない感じです。もちろん、充電しつつも色んなことを考えてはいるんですけど」
「私がやってもいいですか?」
安東さんは2005年から2012年までの7年間、履正社医療スポーツ専門学校で鍼灸学科の教員をつとめた。そして教壇に立つかたわら、毎日のように、スポーツ選手が血と汗を流して競い合う芝のグラウンドに足を運んでいた。彼女は鍼灸師とアスレティックトレーナーの資格をダブルで保有する現役のトレーナーでもあったからだ。
大学時代に経験したアメリカンフットボール部の学生トレーナーを皮切りに、アメフトの社会人・大学チーム、強豪で知られる高校のサッカー部など、足かけ20年にわたってアスリートをサポートする任務をまっとうしてきた。2005年からは履正社高校サッカー部のトレーナーとして、練習場である茨木グラウンドに通い詰めた。そしてその現場で、アスレティックトレーナーを志す専門学校生の実習の指導も行っていた(※日本スポーツ協会公認のアスレティックトレーナー資格を取得するためには、180時間以上の現場での実習が必要)。
「履正社高校は今でこそ全国大会の常連のようになりましたけど、初めて関わらせていただいた頃はまだトレーナーもいない状況で。『じゃあ、私がやってもいいですか?』みたいなところから始まって……」
当時、28歳。鍼灸師であり、アスレティックトレーナーであり、教員でもあった安東さんのそれまでの人生は、聞けば聞くほど濃密なものだった。
何を、どこで、誰に学べばよいのか。
もともと京都に実家があった安東さんは、父親が医師、母親が薬剤師という医療一家に育った。なぜか、物心がついた頃から「筋金入りの」スポーツ少女だった。
当時のことを伺うと、目を輝かせて回想してくれた。
「毎晩欠かさず『プロ野球ニュース』を見て、その日の清原(和博)の打率を手帳につけたりするような子どもでした。大好きだった選手はヤクルトの栗山英樹さん(現日本ハムファイターズ監督)。国立の東京学芸大学を出ておられるので、『勉強ができるうえにプロ野球選手! すごい!』みたいな(笑)。小中高と、スポーツ雑誌の『Number』も愛読していて、スポーツを外から眺めたり、その中で働いたりするということにすごく興味を持っていたと思います」
小学校時代から勉強、スポーツともに得意で、京都の名門、同志社中・高では陸上の短距離走に打ち込んだ。専門は200mと400m。無酸素運動の限界に挑戦する過酷な種目だ。
「私、勉強にしてもそうだったんですけど、誰にプレッシャーをかけられているわけでもないのに、『やらなあかん!』って自分を追い込んでしまうところがあるんです。中高の同学年に200mで全国優勝するくらい速い子がいたので、リレーでは近畿大会まで行きました。でも、陸上の短距離って、才能のきらめきみたいなものが絶対に必要なんです。その事実を目の当たりにするうちに、高校になって自分のケガが多くなってきたということもあって、だんだん、競技者としてやっていくというよりは、トレーナーであったり、スポーツ科学的なことをつきつめていく方に気持ちが向いていきました」
高校時代からトレーナーを志し、独学でスポーツ科学を勉強し始めた安東さんだったが、当時の日本において「トレーナー」という職業分野はまだまだ発展途上で、何を、どこで、誰に学べば良いのか、まるで雲をつかむような話だったという。
「高校の陸上部の顧問が東京教育大学(筑波大学の前身)の出身だったので、その先生の勧めもあって、何もわからないなりに、筑波大の体育専門学群に進学しました。元々見るのが好きだったラグビーのトレーナーをやりたいと思ってたんですけど、当時の筑波大学ラグビー部は女子スタッフを採用していなかったので、勧誘を受けたアメフト部の学生トレーナーになりました」
そこには、未知の荒野がほとんど無限に広がっていた。
「そもそも教員養成校なのでトレーナーを育成するカリキュラムがはっきりとない、レールが何もない中で、高校を出たばっかりの私が選手たちの中に放り込まれて、毎日毎時間、『あれもやらなあかんわ、これもやらなあかんわ』って。必要に迫られて、帰って必死に勉強しました。すべてが初めての経験でしたけど、そんなこと言ってられませんから。何もかも『身につけざるを得ない環境』だったと思います」
その時期がなかったら、何も身につかへんかった。
体育会アメリカンフットボール部の練習は週6日。唯一のオフである月曜日も朝から大学の講義があり、休日は無きに等しかった。
「授業は真面目に出ていたので、バイトをする時間は金曜の夜と土曜の夜しかなかったですね。『デニーズ』で徹夜のバイトをしてました。23時から翌朝の8時まで、めっちゃトイレの掃除をしたり、朝食の納豆をめっちゃセットしたり、ジャンパーを着て冷凍庫に入って在庫を数えたり……。その後、社会に出てからも、平日は学校で授業を持ちながら土日はアメフトのチームをみたり、鍼灸院でも働いたりしていたので、考えてみれば20年間はほぼ週休ゼロだったと思います。ブラック企業みたいって言われるかもしれませんけど、『体育会だからそんなもんじゃないの』って思っていましたし、自分でやってたから仕方がないです(笑)。今の若い人には通用しないでしょうけどね。ただ、私は要領も悪いし、その時期がなかったら、何も身につかへんかったと思う。とにかくずっと現場にいながら学ぶことしかできなかったから」
筑波大学アメリカンフットボール部に携わった4年間で徹底的にトレーニングの知識を深め、大学卒業後は、医療国家資格である鍼灸師の免許を取るために専門学校に再入学した。
「医療資格を持っている方が、将来の選択肢が広がると考えたんです。もしトップアスリートや競技スポーツをアスレティックトレーナーとしてみるのであれば、ほぼ確実に必要だと思います。やっぱり選手の身体を触る者として、医療ライセンスを持っているかどうかは一つの基準、目安になるので。最近は各競技の日本代表がトレーナーを募集する際の要件に、日本スポーツ協会のアスレティックトレーナー資格を持っていることに加えて、医療資格を持っていることっていうのがついてくることが多いですし」
そして鍼灸師の資格を取得した後、フィットネスクラブのアルバイトなどを含む2年間のフリーター生活を経て、2005年からは履正社医療スポーツ専門学校鍼灸学科の教員、そして履正社高校サッカー部のチームトレーナーとして、現場を飛び回る毎日が続いたのだった。
「仕事ができる身体にしてください」
安東さんの身に異変が起きたのは、2013年8月だった。
7年勤めた履正社医療スポーツ専門学校を退職後、新たなステップとして、神奈川県の桐蔭学園高校サッカー部でトレーナーを務めていた時期だった。
引っ越した先の横浜では、朝練のために早朝5時に起床し、6時半には桐蔭学園のグラウンドにいた。朝練終了後、生徒が授業を受けている昼間は非常勤講師として別の専門学校で教えたり、出張で鍼灸の治療に赴いたり、鍼灸院で研修したりし、15時前にはグラウンドに戻って夜の19時まで練習をみる毎日。まっすぐ家に帰り、なるべく早く寝る。それ以外のことは何もしない。そんな生活が2年続いた、ある日のことだ。
「朝起きたら、目は開くんですけど身体がどうしても動かなくて。その日の試合に行けなかったんです。監督に『とにかく2週間休んでください』って言われました。3日目くらいに『もう行けます』って言っても『ダメ』みたいな(笑)。もっと前から頭痛はしてたんですけど、『朝起きたら頭は痛いもの』くらいに思ってて。感覚がマヒしていたというか、身体の不調に自分で気がついていなかったですね」
「スポーツが好き」「トレーナーになりたい」という気持ちだけで夢中に生きてきた20代の自分とは、何かが違うのかもしれない。初めて立ち止まったそのときに浮上してきたのが、鍼灸師の免許を取った時に学んだ東洋医学の考え方だったという。
「ウチの患者さんの中もいるんですけども、“ブラック”なところで働いている人って、週に3日も徹夜の仕事を入れられたりしているのに、身体が弱って発想も病んでしまっているから、『仕事ができないのは自分の身体が良くないからなので、仕事ができる身体にしてください』って言うんですよね。自分がやってたから、その気持ち、わかるんです。現場の都合が絶対だから。それに合わせられないのは自分が悪いってなる。でも、トレーナーとしてより鍼灸師としての視点から見れば、やっぱり、長く続けられるペースで仕事をすることだったり、自分のやりたいことができるように身体を手入れするということがすごく大事なんだな、ということが30代の後半になってわかってきました」
それは、スポーツの指導を続けていたから見えてきたことでもあった。
「たとえば部活で、選手がシーズン中に風邪を引いたりすると、指導者は『自己管理がなってない』って言ったりすると思うんですけど、毎日全力で練習して、昼間の授業も『寝ないで受けろ』と言われて受けて、それで色んな咳をしている人が乗っている満員電車に乗って通学で往復して、しかも大会前の緊張感が強い状態で、『風邪を引くな』。これって自己管理? みたいに思うこともあって。だんだんと、自分が身体をこわしたりした経験も含めて、古い体育会にありがちな『気持ち一辺倒』みたいなものだけでは何かおかしいんじゃないか? って。そう考えていた時に、自分が免許を持っている鍼灸の、東洋医学の思想みたいなものが、『そういうことか!』って腑に落ちたんですよね。ベースとなる生きる力がしっかりしていないと、上には積むことはできない。だから今、スポーツと、生きる力を整える東洋医学の両方を上手く混ぜていけるといいな、と思ってるんです」
主宰する週末のワークショップや寺子屋は、「東洋医学を生活につなげる」こと、それともうひとつ、「身体を正しく動かす」ことがテーマだ。
「東洋医学は外傷だけじゃなくて生活全般にかかわるものですから、色んなことを伝えてあげられます。鍼灸の治療はその中でもスペシャルなことであって、それ以前にちゃんと寝るとか、身体を冷やさないとか、きちんと食べるとか、日常の養生の方が大事だというのが東洋医学の考え方。だからウチに来はる患者さんには、ウチに来院する『間』に何をやってほしいかということもたくさんしゃべります。食べ物をこういう風に気をつけましょうね、とか、早寝早起きしましょうね、とか。それに加えて、スポーツの現場で学んできた、身体の使い方や動かし方もお伝えします。こういう運動や体操をやってね、とか。日頃のことをやっていたら、そんなに大変なことにはならないので」
安東さんは今、自身のスポーツ現場での経験と臨床の経験を活かしてどんなことができるか、未来のプランをあたためながら日々を送っているという。
「部活動をやっているような『育成年代』の子どもたちに、東洋医学の考え方や、私が長らく気づくことのできなかった『長く続けるには生きる力が重要だ』ということを伝えられたら……と思っています」
トレーナーとは、編集者である。
ひとつ、聞いてみたい質問があった。
――トレーナーって、どんな仕事ですか?
高校生の頃、何もわからないままに憧れて目指したというスポーツのトレーナーという仕事を、20年間続けたことで見えた答えが知りたかったからだ。
安東さんは即答した。
「トレーナーという肩書がついている人をたとえば10人並べたとして、『日頃、どんなことやってますか?』って聞いてみると、たぶん10人とも、それぞれ違う答えが返ってくると思うんです。それくらい、定義がはっきりしない。でも、これだけは言えるかな。トレーナーって、『人の間に立つ』仕事です。チームには選手や監督・コーチ、ドクターや理学療法士、鍼灸師がいて、彼らの話す言葉はそれぞれに違う。アスレティックトレーナーは、自分ひとりで何でも片付けるのではなくて、ハブになるというか、それぞれの立場にいる人の思っていることとか、話している言葉がわからないといけないんですよね。現場で一番、色んな方向に開いていないといけないポジションなんです。コミュニケーション能力ってよく言いますけど、要は『誰とでも話ができる能力』のことですね」
まるで、ライターやカメラマンやデザイナーとの関わり合いの中で本を作る、編集者のようだ。
「そうですね。全部の分野で専門職になる必要はないけど、その人が言われる専門的なことは、ある程度わからないといけない。色んな人を『横につなげる』のがトレーナーの仕事です。だから、人と人との真ん中にいること。言葉を多く持っていて、色んな立場からものを見てみるという想像ができる人。それがアスレティックトレーナーに求められる素質だと思います。自分が中心であるとか、前に出るということによろこびを見出す人には向かない職業かもしれませんね」
安東さん自身、トレーナーとしてだけでなく、鍼灸、そして教員の世界の経験も「横につなげられる」アドバンテージを感じている。
「自分は器用貧乏だ、全部中途半端だ、ってコンプレックスのように感じていた時期もあったんですけど、今はそのいくつかの分野をつなげたり、あいだを混ぜることができるのが強みなのかな、と思っています。それも、自分の中でつなげてそれで完結じゃなくて、7年間教員をしていたおかげで、それを説明する技術を身につけられたことも有り難いと思っています。専門性を持っているということと、教えるということは別の技術ですから」
履正社の学生だからできること。
そんな安東さんに、アスレティックトレーナー、鍼灸師を目指す学生へのメッセージを授かった。
「特に若いうち、キャリアの初めのうちは、現場でどれだけのものを拾えるかということがすごく大事だと思うんですよ。私はラッキーなことに、大学の時に必要に迫られて、自分で色々な仕事を身につけざるを得ない環境で育てられましたけど、今の学生はテキストで勉強して、それを現場に探しに行くみたいな流れになっているでしょう? それだと、本当には役に立たない知識になってしまいがちだと思います。履正社にはグラウンドがたくさんあって、チームもたくさんあるけど、はっきり言ったら、学生のうち、研修中のトレーナーなんて使えない人材なんです。その使えない人材を『そこにいていいよ』って指導者が言って下さるこの環境を大事にしてほしい。しかも全国レベルの指導をされていて、トレーナーに理解のある指導者が揃っていますから、学生はもっともっと指導者に接した方がいいと思います。もったいないですよ? こんな環境。こういう現場がたくさんあるということは、とてもラッキーなことだと思います」
「学生に言ってあげられることはたくさんある」とおっしゃっていた通り、貴重なアドバイスが次から次へと、淀みなくあふれ出る。
「あとは、みんなで勉強した方がいいと思います。色んな学科の人間で集まって。そしたらきっと、色んな見方でものが言えると思うから。たとえば腰痛の選手が来た時に、アスレティックトレーナーの学生だったらリハビリのことやストレッチのことを言うだろうし、鍼灸の学生だったらツボを押したりお灸を自分でしたりってことができるかもしれないし、柔道整復の学生だったらもっと違う観点から話ができたりするかもしれない。そういうことをやっているうちに、『あ、そっか。俺はアスレティックトレーナーになるけど、こういう時は鍼灸師に頼めばいいんだな』みたいな気づきがある。『ハブとして生きていく』ということがわかってくると思いますよ」
鍼灸院の目の前には市バスの停留所があって、地図片手の外国人観光客たちが、窓の外に定期的に降り立っていく。ふと見ると、ストーブの煙突から建物の外に「もわもわ」煙が漏れ出しているのが見えて、安東さんは「お隣に怒られちゃうかな」と苦笑した。「お隣」は創業40年を超える寿司屋である。
「この辺り、年配の方が多くて。近所の集会場でラジオ体操の指導をしているんですけど、みなさんに気に入ってもらってるんです(笑)」
進路に迷うことがあれば、「ゆに鍼灸院」の門を叩いてみるのもいい。安東さんは今日もどこかの現場で、人の間に立っている。
安東 由仁 あんどう・ゆに
1977年、京都市生まれ。同志社高校卒業後、筑波大学体育専門学群を経て、明治東洋医学院専門学校鍼灸学科および教員養成学科を卒業。筑波大学在学中より同大学体育会アメリカンフットボール部の学生トレーナーとしてスポーツ現場に携わり、以降20年間にわたって様々なチームでトレーナー活動を続ける。担当した主なチームに甲南大学アメリカンフットボール部、アサヒ飲料チャレンジャーズ、履正社高校サッカー部、桐蔭学園高校サッカー部など。2005年から2012年まで、履正社医療スポーツ専門学校鍼灸学科の専任教員を務めた。保有資格は、はり師・きゅう師、はり師・きゅう師教員免許、日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー、第一種教員免許(保健体育)。2015年、京都市左京区に「ゆに鍼灸院」(ホームページはhttp://humanitekyoto.com)を開業。マイブームは「小学校からずっと」家庭科、読書、写真。「去年の夏は近所のおばあちゃんにならって、浴衣と着物を一枚ずつ縫ったんです」
写真/平野愛 文/釜谷一平
※所属・肩書きは取材時点のものです